読んだ

ぼくは落ち着きがない

ぼくは落ち着きがない


衿沢世衣子のイラストに惹かれて表紙買いしたのだが、ここ数年読んだ小説の中でいちばんびっくりした。以下、書き飛ばし。
「感動した」とか「うまいなー」とかじゃなくて、すごい。というかヘン。すごくてヘン。すごくヘン。そんな小説。もちろん誉め言葉で、要するに特有の異物感がある。幻想小説を読んだ時のそれとはまったく異なる類の。

小説の舞台は高校の図書部で、有体に言えば彼らのんべんだらりとした日常を描いた……ということになるんだろうけど、そんな凡庸な言葉で片付けたくない。読んでいてひっかかる箇所が無数にある。だからなのか、文体は大変シンプルで凝った修辞も使っていないのに、実は結構読みづらい。読みづらいというのは、ここでは密度が濃いことの裏返し。1ページに1回ぐらい、その意味するところを立ち止まって考え込んでしまう台詞やモノローグ(というかほとんど箴言)があって、結局少し前まで戻って読み直したりしていたら、えらく読むのに時間がかかった。
ネット上の感想では、「何も起こらない」とか「ゆるーい」というのをよく見るけれど、例えば主人公・望美の心中では常に多様で複雑な感情が波打っているし、全体の空気もゆるいというよりむしろ生々しい。

前後の文脈によって意味が規定されるものであることを承知で、あえていくつかモノローグを引用してみる。

この世の中の人は、誰もがただ会話するだけでも芝居がかる。即興で「キャラを演じる」。役割の中でボケたり、ツッこんだりもする。部室の皆だけではない、誰もがテレビや本や、あるいは先人たちのふるまいや、それぞれの心の中に降り積もった情報を参照して、言葉を外部に発しているんだ。上手にふるまえない人は、しんどい。当意即妙に冗談がいえたり、余計なこといわなかったり。「空気読めない」のは生きにくい。

思い出とは情報のことだと望美は定義する。本も情報だから、現実の想い出と混ざることがある。

自分たちの愛する場所がなくなるから残せ、なんていうのは感傷の押し付けだ。


ノローグと台詞が()を交えて入れ子状になった構成はかなり前衛的。しかも前衛をきどったりあらかじめ目指したり、というのではなく、気付いたらこうなっていた、という風。

明確な主題らしいものはない。あえて言えば、思春期特有の自意識の問題。みなブルーにこんがらがっている。が、キモは登場人物同士のやっかいな関係性だろう。それも、人と人との「つながりかた」じゃなくて、「すれちがいかた」を描いている。フリッパーズの<おかしいほどいつもただすれちがうことがセオリー>という歌詞を思い出した。

そして、何度も読まないと気付かないような、巧妙で精密な構成。例えば下記の引用部分。学校裏サイトについての図書部員の会話があり、ややあって、梨をみんなで食いながら雑談、というシーンに切り替わる。この接続の鮮やかさはどうだろう。

うまい。梨うまい。画面を見れば画面の単語に、梨を食えば梨のことに、いきなり気持ちが支配されてしまう自分に驚く。梨はシャリシャリしてる。梨とか菓子パンとかうまい棒とか、口に入ればうまいって思うよな、きっと。裏サイトに書き込む人も。


梨の味や形状に関する描写によって、読者の意識は一旦裏サイトから切り離されるわけだが、それが上記のモノローグでまた裏サイトへと引き戻される。しかも、その接続は唐突なようでいて、周到に計算されている。「梨」と「裏サイト」の中間地点に<画面><画面の単語>という、裏サイトを(直接的にではなくとも)連想させる言葉を緩衝材的に配置することで、スムーズに梨と裏サイトを架橋しているわけだ。

しかも、倒置法的に<裏サイトに書き込む人も。>と主語を最後の最後に持ってきているのが効いている。これが<裏サイトに書き込む人も、梨とかパンとかうまい棒とか……>という語順だったらそんなに驚かなかっただろう。

こういうものを同時代に読めると、生きててよかった、と素直に思う。