女優ほど素敵な商売はない――小劇場界を彩る、7人のスタァたち

 フリー編集者の藤原ちからさんたちが小劇場界の役者ベストイレブンみたいな企画をやるらしいのですが、そういえば自分も、小劇場界の役者について1年くらい前に原稿を書いていたので、期間限定でアップしておきます。初出は『kate Paper』という、下北沢のケイトコーヒーというカフェのフリーペーパー。昨年の夏ごろ配布されていて、今は入手困難かと思います。なお、アップにあたって、誤植や語尾を一部修正しています。こういう企画がもっと増えるといいですね。


女優ほど素敵な商売はない――小劇場界を彩る、7人のスタァたち

 今年1月、五反田団という劇団の出演者オーディションに応募した。主宰・前田司郎の、「軽い気持ちで受けていただけると一番ありがたいです」という言葉が背中を押してくれた、というのもあるのだが、要するに羨ましかったのだと思う。ここ数年、小劇場界で見かけた素敵な役者たちの輝きが。彼ら/彼女らは、自分が持っていないものをすべて持っている。勝手な思い込みかもしれないが、そう思った。
 同じく今年初頭、ポツドールという劇団の初公式パンフレットで、全記事の取材・構成を担当させて頂いた。劇団主宰の三浦大輔は、役者を精神的に追い詰める過酷な演出も辞さないタイプで、稽古場は常軌を逸した修羅場と化すこともあるという。もちろん、それはいい作品を妥協せずに作りたいという三浦の真摯な欲求に起因するもので、役者は完全に納得づくで作品に出演する。稽古中は人格が変わるという三浦はしかし、上演終了後、ある役者にこんなことを言ったという。「役者って人を感動させられる、すごい職業だと思いますよ」。泣かせるエピソードだ。
 というわけで、役者こそが重要なのだ、いや、役者だけが重要なのだ、とあえて断言してみたい。平田オリザはかつて「役者は私にとって将棋の駒にすぎない」と、(意図的に)挑発的な発言を繰り返した。「私の作品において、役者の自由はありえない」とも。そして、その理論を敷衍したのが、「役者は交換可能な存在である」というテーゼを作品に織り込んだチェルフィッチュや、ゼロ年代後半に台頭したそのフォロワーたちであった。だが、筆者はここで、あえて役者、それも未知のポテンシャルを秘めた7人の女優について、空気を読まず、個人的な嗜好を含めて放縦に語ってみたい。
 なお、似たような趣旨の文章が、『ユリイカ 特集*この小劇場を見よ!』(05年7月号)に掲載されている。「小劇場界2005年の名花たち」と銘打ったウニタモミイチさんによる女優紹介がそれで、思い入れの強さが筆圧の高さへと昇華された秀逸な原稿である。というわけで、本稿では、ウニタさんの原稿で触れられなかった女優や、ゼロ年代後半に頭角を表しつつある気鋭7名について語ってみよう。

日野早希子(ナカゴー)

 知名度や集客力はまだまだながら、必ずや2010年代の小劇場界の台風の目になるだろうと筆者が信じてやまないのが、ナカゴーなる風変わりの名前の劇団。文化学院の生徒たちによって結成されたこの劇団に所属し、今年1月の『自転車の盗難』では中学二年生、5月の『日曜日』では幼稚園児の役を熱演して見せたのが、日野早希子である。身長149センチで童顔、こんな子が妹だったら……!?という妄想を喚起させる点では、シベリア少女鉄道の篠塚茜と並び、「その筋」のファンを狂喜乱舞させること必至のニュー・アイドルだ。今後客演を含め本格的に女優道をまっとうすれば、ポスト篠塚的ポジションに、案外あっさり収まってしまうのではないか。なお、もっとも印象的だった演技は、『自転車の盗難』の終盤で見せた父親とのすれ違いを描いたやりとり。社会や世間の常識や慣習に疑義を抱き、あくまでもコドモの視点から涙ながらに自らの主張を訴え続けるその姿には、胸が締め付けられた。

上田遥(現・ハイバイ)

 その『自転車の盗難』のシーンにも言えることだが、ちっこくて非力そうな女の子が、声高に必死で何かを訴えている光景を見ると、無条件に胸が締め付けられてしまう。日野と並び、そうした役をやらせたら当代随一と言えるのが、上田遥だろう。ハイバイの代表作『て』では、険悪な家族のムードに馴染めないことを母親に泣きながら訴え、ハイバイの岩井秀人が脚本を書いた『グランドフィナーレ』では、自殺した友人にまつわる想い出を涙ながらに語り尽くした。また、神里雄大作・演出の『グァラニー〜時間がいっぱい』では、異文化の壁に悩む帰国子女の娘にむかって檄を飛ばす母親役を熱演。愛らしいベビー・フェイスをグシャグシャにし、舌ったらずな声で長台詞を発したその姿は、先述の日野と並び、「必死で訴える女優」という架空のジャンルを策定したくなるほどだった。

永井若葉(ハイバイ)

 その上田と『て』で共演したのが、今やハイバイの看板女優と言ってもいい永井若葉。しかし、彼女の存在感は常に両義的かつ曖昧な性質を帯びており、「こういう女優」と断定的に定義/説明することが難しい。まず、年齢不詳。ハイバイ『て』では痴呆の老婆役を演じて見せたが、元々少女性と母性を併せ持ち、その両極で揺れ動く永井の特異性は、この配役によってようやく本格的に浮き彫りになったと言える。老人が幼児退行を起こし、幼女のような笑みを浮かべるのは実際にあることだが、永井は同作で、幼女と老婆を無垢の象徴として同時に舞台に現出させるという離れ業をやってのけた。
 また両義的という意味では、彼女ほど中性的な女優も珍しいだろう。面倒見のよさそうなお姉さんに見える一方、少年っぽい面影もあるし、やんちゃで快活で活発そうなのに、品のいい山の手のお嬢様に見えもする。でまあ、そうした分析を一旦反故にして、個人的な妄想を語ると、自分が小学生に戻れるならこんなお母さんにタコさんウインナー入りのお弁当を作ってもらいものだ、という話に尽きる(結局それか)。

中川幸子(五反田団

 今名前の挙がったハイバイと交流の深い五反田団もまた、多くの優れた役者を抱えている。その中でも、筆者がまっさきに推したいのが中川幸子。オタク的に言うなら、推しメンである。まあ、熱心なファンならば、何故後藤飛鳥でも望月志津子でもなく中川幸子なのか?と疑問を抱かれるかもしれない。確かに、出演作自体はさほど多くないが、ここは彼女の未来に投資する(?)意味も込めて、中川に一票を投じたい。こんなことを書くと本人に怒られそうだが(筆者註:怒られるどころか喜ばれた)、筆者が中川をチャーミングだと思ったのは、実は舞台ではなく、公演会場で手作りの蒸しパンやピロシキ、駄菓子などを、学園祭よろしく元気よく売る姿を見た時であった。きっぷが良く、体育会系で、ボーイッシュ。中性的なヴィジュアルと、面倒見のいい野球部のマネージャー的キャラが合致し、大変魅力的だと思った。その意味で、最もそのキャラが色濃く反映されていたのは、『さようなら僕の小さな名声』の再演だろう。「〜っす!」という語尾で威勢良く話す劇団員の役を好演。体育会系といっても、ヤンキー的ながらっぱちではなく、あくまでも爽やかで清潔感のあるところもいい。

中林舞(快快)

 狭義の演劇に収まらない縦横でフットワークの軽い活動を展開するパフォーマンス集団・快快にあって、もっとも女優志向が強いのが中林舞だろう。毛皮族やtoiへの客演でも程度証明済みだが、クラシックバレエで鍛えたヴァーサタイルな身体表現と、やや漫画的とも思える発声や仕草は際立った個性と言える。ちなみに、素の彼女と接してみて驚いたのは、舞台以上にハキハキと明瞭な発声で喋り、日常的に大きなリアクションを取ることだった。つまり、テンションを意識的に上げることで舞台という非日常に自らを同化させる行き方と、彼女のそれは真逆なのだ。中林は意識的にステージ上でその振る舞いをクールダウンさせることで、現代口語演劇の磁場に自らを馴染ませているのである。だが、その持って生まれた大袈裟な(と、本人は思っていないのだろうが)ジェスチャーや発声は、必ずや大きな武器となるはずだ。それは例えば、“静かな演劇”よりも“うるさい演劇”で効力を発揮するのかもしれないし、その意味では狂騒的なハレの舞台を立ち上げる毛皮族に客演したのは正解だったと思う。今後、漫画的なデフォルメを施されたキャラ造形を特徴とする本谷有希子の舞台にも立っても面白いのではないか? ともあれ、口語演劇の場では封印されてきた解放的で躍動感に満ちたパワーを十全に発散できる場所があれば、更なる飛躍、いや、跳躍が期待できると見る。

高野ゆらこ(毛皮族

 “テロエロ歌劇団”という謳い文句がひとり歩きしたのか、脚本・演出や演技の質があまり吟味されずにいるのは、現在の毛皮族にとっては、不幸という他ない。08年の『おこめ』では方向性に迷いも見えたが、享楽的なパワーで押し切った『遺骨のトットさん、ドブに落ちる』、連合赤軍事件を換骨奪胎して見せた『暴れて嫌になる夜の連続』、そして恒例の軽演劇シリーズと、09年は毛皮族にとって飛躍の年だった。特に光ったのが、主宰・江本純子の脚本の充実ぶりと、役者の目を瞠る急速な成長だ。元々スター性が強く華のある女優を抱えている劇団ではあったのだが、看板女優・町田マリーの前に個々が霞んでしまったところもあったのかもしれない。が、町田が09年の本公演に出演しなかったことが、逆に女優陣の奮起と成長を促したようにも思える。町田なしでも充分やれるんだという気概を示すかのように、全体のレヴェルが明らかに底上げされていたのだ。あえてベスト・アクトレスを挙げるなら饒舌な会話劇『ふれる』で哀愁を背負ったモンスター・キャラを熱演した柿丸美知恵ということになるが、しかし、芸風が既に確立されている柿丸ではなく、ここではあえて伸び盛りの高野ゆらこを推したい。
 ベビーフェイスで秋田美人風の彼女だが、その裏に隠された凶暴性が唐突に噴出/露出する瞬間が見もの。極道の女に扮したOLから、三味線をたしなむ風流な町娘、オタクっ気たっぷりのカメラマンまで、09年の毛皮族を総括する際に浮かんでくるのは、高野のハジケっぷりだ。映画『ドモ又の死』への出演というトピックもあるが、やはりドリフっぽい(あるいは『がきデカ』っぽいといってもいい)、コミカルで仰々しい動きでこそ、その真価を発揮するタイプかと。その意味では、リアリズムの追求が重視される現代口語演劇よりも毛皮族でこそ輝く存在であり、特攻スタイルを得意とする同劇団の爆弾娘としてまだまだのびしろを秘めていそう。

吉本菜穂子

 以上、筆者が将来性があると見込んだ新鋭を中心に語ってきたわけだが、最後は誰もが認める実力派、吉本菜穂子にご登場頂こう。そもそも、専属の劇団員を抱えない方針の劇団、本谷有希子にあって、03年の『石川県伍参市』以降、すべての本谷作品に出演しているという事実が、その安定感とブレのなさを物語る。本谷が全幅の信頼を寄せる名バイプレイヤーとして名声を高めると同時に、最近は映画やテレビでもその姿を目にするようになった。
演技は巧いが、「ただ」巧いだけではない。ドラえもんのような、といったら失礼だろうが、あのしゃっくりしながら喋っているような裏返った声がある限り、吉本は永遠に吉本だ。ただ、実はあれは演技ではなく地声であり、彼女自身、その特異な声質にひけ目を感じていた時代もあったという。それが、演劇との出会いによって一変したというのだから、まさに女優が天職なのだろう、この人は。
 とはいえ、まだまだ期待したいことはある。さきほどブレがない、と書いたが、そんな吉本がブレブレになって更に錯乱、狂奔するさまを見てみたいのだ。それはもしかしたら、舞台や映画よりも、アニメにおいて顕現化するのではないか。以前、「声優やらないんですか?」と本人に訊ねたところ、「実はすごくやりたいんですよ!」との返答を頂いた。確かに、アリだと思う。そもそも、本谷有希子も声優デビューがブレイクのひとつの契機となったわけで、ここはひとつ、本谷に声優として再登板して頂き、吉本と共演、というドリームマッチを見てみたいものである。
 最後に蛇足。筆者がいちばん見てみたい、役者をやらない演劇人ナンバーワンは、当然、本谷有希子。あの異常な羞恥心と自意識病をうまく舵取りすれば、さぞかしいびつな面白みを帯びた役が現出するはず。本人が嫌がるのを承知で、その決定的瞬間が来るのを、いつまででも待ってみたい。