ついったーの賢い使い方

つぶやきを抜き出して順序を組み替えると、それだけで自然と整合性やロジックが生まれる。要するに時系列に沿ってリニアに思考しているのではないわけで、一ヶ月前に書いたことを同工異曲で反復していたり、3日前に今日書いたことの予兆が記されていたり、語り口と対象が違うだけで1年くらい同じこと言い続けてたりするのがおもしろい。順番を入れ替えて接続詞を加えるなど、編集したら原稿に……はしているが、本が書けそうな気もする、というのは甘いかさすがに。でも、結構そういう使い方してる人いると思う、著述家でネットやる人には。そして、ミクシィで他人の日記にコメントしたものとかも混ぜてみる。以下実例。

Icon_lockエヴァ破四度目感想。リツコ博士の「人の形を捨てたエヴァンゲリオン初号機、相補性の巨大なうねりの中で圧縮されたエネルギー体へと変容していくんだわ!」みたいな説明的すぎる、ほとんどモノローグ状態の台詞に苦笑。モノローグが使えない演劇でも無理に状況説明しようとして失敗することがあるが Icon_lock台詞が聞こえなくても視覚的情報だけで役人物の関係性から状況まで分かるポツドールや東京デスロック、情報量を増やし意識を拡散させる矢内原美邦、「それから●日後」的なテロップを極限まで洗練させてスクリーンに投影するナイロンやこの前の本谷有希子などは正しい。5:00 PM Aug 10th webで ariaketosaIcon_lockゼロ年代小劇場の理論的支柱である平田オリザ曰く、戯曲家に必要な条件は「記憶力、観察力、想像力」。この話を優秀な戯曲家に振ると、皆「自分は全く記憶力と観察力がない」という。つまり現実を「みてきたような嘘をつく」ように、曲解や妄想込みで舞台に乗せる「再現力」(≠想像力)こそが重要。>●●さん ども! 演劇を評価する時につくづく難しいなあ、と思うのは、20ステージあったら、20回別の舞台だということです。だってライヴですもん! ゆえに、劇評にはいついつどこどこで(時には何列目で)観た、とわざわざ書くわけで、厳密には同じ舞台を観たとは言えないんですよね。要するに、僕が●●さんと同じ回を観たとして、上記劇評と同じことを思ったか?ということ。案外、こういう感覚に演劇プロパーの方のほうが逆に無頓着だったりするなあ、というのが実感です。相対的な評価でしかない、というより、舞台も音楽のステージも、同じくライヴだよね、という感覚に。

Icon_lockミクシィとついったーとはてなスカイプと携帯メールとPCメールと電話。つながっている気がするだけ、むしろつながればつながるほどさびしい、かまってほしい→かまいたいの永久運動と無限ループ。ハンガリーにいる友人達と今離れているという厳然たる事実を実感するためにあえてスカイプしない。7:34 PM Jul 22nd webで
Icon_lockついったーを「あえて」ブログ上でやる佐々木敦、これも一種のパフォーマティヴな批評なのかっ!?と思わせるがたぶん何も考えてないhttp://plexplex.exblog.jp/ Icon_lock誰とでもつながろうとする者は、結局誰ともつながることができない。誰でもフォローしようとすれば、結局誰もフォローすることができない。6:29 AM Jul 23rd webで con_lock「募集人員、1名なの!」。国境のない仮想空間の象徴がジョンとヨーコっていうのも、気が利いてるね。